メタフィクションが切り拓く物語の可能性:ゲームが示す第四の壁の超克と創作への応用
導入:物語の「虚構性」を問い直すメタフィクションの力
物語創作において、読者や視聴者を作品世界に深く没入させることは普遍的な目標の一つです。しかし、その一方で、物語が「虚構である」という事実をあえて提示し、その構造自体を物語の一部として機能させる「メタフィクション」という手法が存在します。これは、第四の壁(作品世界と鑑賞者の間にある見えない境界線)を意識させ、あるいは意図的に打ち破ることで、より多層的で深遠な体験を提供するものです。
文学や映像作品においても古くから用いられてきたメタフィクションは、ゲームというインタラクティブなメディアにおいて、その本質的な特性と結びつき、独自の進化を遂げてきました。ゲームはプレイヤーの能動的な介入を前提とするため、メタフィクションは単なる「語り手の仕掛け」に留まらず、「プレイヤー自身」の存在や「ゲームシステム」そのものを物語の要素として取り込むことを可能にします。
本稿では、ゲーム独自のストーリーテリング手法としてのメタフィクションに焦点を当て、その具体的な事例と効果を分析します。そして、ゲームにおけるメタフィクションが、文学や映像といった他のメディアの表現や創作手法にどのような新たな視点と応用可能性をもたらすかについて考察を進めます。
ゲームにおけるメタフィクションの手法と事例分析
ゲームにおけるメタフィクションは、プレイヤーの行動やシステムの制約、あるいはゲームという媒体そのものの存在を物語に織り込むことで、虚構のリアリティを揺るがし、作品への関与を深める多様な形をとります。
1. プレイヤーの存在を物語に組み込む手法
多くのゲームでは、プレイヤーは物語の主人公を操作する「匿名のアバター」として振る舞います。しかし、メタフィクションでは、この「プレイヤー自身」が物語の登場人物として、あるいは物語の語り部として直接的に言及されることがあります。
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『Undertale』におけるプレイヤーへの直接語りかけと行動の記憶: 『Undertale』は、プレイヤーの選択や行動(敵を倒すか、逃がすか、あるいはリセットするか)が物語に深く影響を与えることで知られています。特筆すべきは、ゲーム内のキャラクターが「プレイヤー」の存在を明確に認識し、過去のセーブデータやリセットの履歴、つまりプレイヤー自身の行動を記憶しているかのように語りかけてくる点です。これにより、プレイヤーは単なる操作者ではなく、物語世界に具体的な影響を与える「実在の存在」として意識させられ、自身の倫理的な判断や行動の責任を深く問い直すことになります。これは、文学における「語り手が読者の存在を前提に物語を進める」手法を、インタラクティブな形に昇華させた事例と言えるでしょう。
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『Doki Doki Literature Club!』における「ゲームの外」への干渉: この作品は、一見すると典型的なビジュアルノベルですが、物語の進行と共に、ゲームのファイル構造やプレイヤーのPC環境にまで干渉することで、極めて強烈なメタフィクション体験を提供します。キャラクターがゲームのシステムファイルを操作したり、プレイヤーのPC名に言及したりすることで、虚構と現実の境界を破壊し、プレイヤーに「ゲームの外側」から物語に巻き込まれているかのような感覚を与えます。これは、単なる物語の内部構造を越え、メディアそのものが持つ枠組みを侵食する、ゲームならではの表現と言えます。
2. ゲームシステムやUIの開示・物語への組み込み
ゲームは、HPゲージ、マップ、メニュー画面といったUI(ユーザーインターフェース)や、セーブ・ロード、コンティニューなどのシステムメカニクスによって成り立っています。メタフィクションは、これらのゲーム固有の要素をあえて物語内で開示したり、物語の一部として機能させたりすることで、独自の効果を生み出します。
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『NieR:Automata』におけるエンディングとセーブデータへの言及: 『NieR:Automata』は、多様なエンディングが存在し、特に「真のエンディング」とされるEエンドでは、プレイヤー自身のセーブデータが物語の結末に直結します。他のプレイヤーのセーブデータを利用して最終局面を突破するという体験は、ゲームが「単独の物語」ではなく、「多数のプレイヤーによって共有される体験」であることを強烈に示唆します。さらに、そのエンディングの代償として、プレイヤー自身のセーブデータが消滅するという選択は、ゲームシステムが物語の核心に深く関わるメタフィクションの極致と言えるでしょう。これは、物語の作者と読者の関係性を問い直すだけでなく、「物語の共有と継承」というテーマを、ゲームメカニクスを通じて具体的に表現した例です。
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『The Stanley Parable』における語り手とシステムの乖離: この作品は、プレイヤーの行動を逐一「語り手」が解説し、時に指示する形で進行します。しかし、プレイヤーが語り手の指示に逆らうと、語り手は困惑したり、怒ったり、あるいはゲームシステムそのものに言及したりします。ここでは、物語を進行させる「語り手」と、それに従うべき「プレイヤー」、そしてその枠組みを提供する「ゲームシステム」の関係性が常に試され、揺さぶられます。UIやゲームの進行ルールが語り手の言葉によって意識化され、それが物語のテーマ(自由意志と運命、選択の無意味さ)と深く結びつくことで、プレイヤーはゲームという媒体が持つ構造自体を思考させられます。
3. 虚構世界の崩壊と多層的な現実の提示
メタフィクションは、作品世界が「虚構である」という事実を提示することで、より深い現実感や哲学的な問いを投げかけることがあります。ゲームでは、これを単なる設定としてではなく、ゲームプレイ体験を通じて実現します。
- ゲーム内のゲームや劇中劇: RPGなどで見られる「ゲームセンター」や「カジノ」といった、本編とは異なるミニゲームの存在は、物語内のキャラクターが「ゲームをプレイしている」というメタ的な状況を生み出します。これは、物語世界が単一の現実ではないことを示唆し、我々がプレイしている「本編のゲーム」もまた、誰かにとっての「ゲーム」である可能性を暗示します。これにより、プレイヤーは自身の立ち位置や、物語の「真実性」について考察を深めるきっかけを得ます。
他メディアへの影響・応用:ゲームが拓く新たな創作の地平
ゲームにおけるメタフィクションの発展は、文学や映像作品のクリエイターにとっても、新たな表現のヒントやインスピレーションを提供します。
文学への示唆
文学におけるメタフィクションは、語り手が読者に直接語りかけたり、物語の制作過程自体を物語のテーマに据えたりする形で表現されてきました。ゲームの事例は、これをさらに深化させる可能性を示唆します。
- 読者の選択と物語の変容: ゲームのように、読者の特定の行動や選択が、物語の語り口や展開、さらにはエンディングを変化させるようなインタラクティブな文学作品の可能性が考えられます。これは単なる分岐小説ではなく、読者の「読み方」や「解釈の履歴」が物語にフィードバックされ、次の展開に影響を及ぼすような、より複雑なインタラクティブ性を内包するものです。例えば、『Undertale』が示すように、読者が過去に読んだ版の記憶が、新しい版の語り口に影響を与えるといった試みも可能かもしれません。
- 作品の「外部」への言及: 『Doki Doki Literature Club!』のように、読者が読むデバイス(電子書籍リーダーやPC)のファイル構造や設定に言及する形で、作品の虚構性を破壊し、読者の現実と物語を接続する手法も応用可能です。これは、単なる文章表現に留まらず、作品が提示される「メディア」の特性を物語に組み込むことで、読者に一層深い没入感と同時に不安感をもたらすでしょう。
- 作者と読者の関係性の再定義: ゲームにおけるプレイヤーと開発者の関係が物語に組み込まれるように、文学においても「作者」の存在や「執筆」という行為自体が物語のテーマとなり、それが読者の体験に直接的な影響を与える作品が生まれる可能性があります。作者が作品の虚構性を指摘することで、読者は作品を批判的に捉える視点を与えられ、物語の多層的な意味合いを深く考察する機会を得ます。
映像作品への示唆
映像におけるメタフィクションは、劇中劇、第四の壁を破る演出、あるいはドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧にする作品などで見られます。ゲームの事例は、視聴者の受動的な体験を能動的なものへと変革するヒントを提供します。
- 視聴者の「選択」が物語を駆動するインタラクティブ映像: Netflixなどのストリーミングサービスでは、既にインタラクティブな映像作品が一部存在しますが、ゲームのメタフィクションは、単なる選択肢の提示に留まらない、より深い体験を提供します。『NieR:Automata』のように、視聴者の過去の選択や視聴履歴、あるいは視聴デバイスのデータが、物語の展開や結末、登場人物の語り口に影響を与えるような設計が考えられます。これにより、視聴者は物語の「外側」にいる存在ではなく、「物語を形作る主体」として認識されるでしょう。
- 映像メディアの特性を物語に組み込む: 『Doki Doki Literature Club!』のように、映像作品のファイル形式や再生環境、あるいは視聴者の視聴ログそのものが物語の要素として機能するような演出も可能です。例えば、映像が一時停止したり、ノイズが入ったりすることが、物語上の意味を持つだけでなく、それが視聴者のデバイス環境に起因すると見せかけることで、現実と虚構の境界を曖昧にする効果を狙えます。
- 「視聴者」の役割を問い直す演出: 『The Stanley Parable』が示すように、映像の語り手が視聴者に対して直接語りかけ、その行動を批評したり、あるいは物語の結末を「視聴者の選択」に委ねることで、視聴者が単なる傍観者ではない、物語の共犯者であるかのような体験を創出できます。これは、ブレヒトの異化効果をさらにインタラクティブな形で発展させるものと言えるでしょう。
結論:ゲームが拓く物語の「開かれた」可能性
ゲームにおけるメタフィクションは、プレイヤーの能動的な介入、ゲームシステムという固有の要素、そして虚構と現実の境界を揺るがす表現を通じて、物語創作に新たな視点を提供しています。これらの手法は、単に読者や視聴者を驚かせるギミックに留まらず、物語の「虚構性」や「作者の意図」、そして「鑑賞者の役割」といった本質的な問いを投げかけ、作品への深い思考と多層的な解釈を促す力を持っています。
文学や映像作品のクリエイターにとって、ゲームが提示するメタフィクションの概念は、既存の枠組みを超え、読者や視聴者をより深く物語に巻き込み、その認識そのものに働きかける可能性を秘めています。物語が、単一の完成された作品として提示されるだけでなく、読者や視聴者の関与によって常に変化し、再構築される「開かれた」体験として提供される未来を、ゲームのメタフィクションは指し示していると言えるでしょう。この研究は、未来の創作活動において、メディアの壁を越えた新たな物語体験を創造するための重要な一歩となるはずです。